ぬるま湯を出る

スタートアップにおいては、短い期間でガーッとハードワークするのが常態化しているイメージを持たれがちです。社畜上等というか、そもそもが仕事とプライベートが渾然一体になっているというか。

就職してから今日に至るまでを振り返ってみると、確かに勤務時間でいうと増えはしても減ることはない気がしていますし、フリーランスとなった今では、そもそもの曜日感覚らしいものすら怪しくなってきています。

個人的には割とのらりくらりとやらせていただけているといいつつも、いわゆる「安定度」とか「収入」の軸でいうと、新卒時をピークとして未だに越えられてはいないでしょう。

ならば不幸への道を歩んでいるのか、と問われれば、むしろ日々の充実度は増しているんじゃないかと胸を張れるあたり、また不思議な感じがします。

最近の私の中での一つの仮説として、危機感がないと人間は成長しない、というのがあります。

格言らしく述べてみましたが、実際のこれの主語は「人間」ではなく、「私」かもしれません。というのも、私自身の性分として甘えたがり、自戒するよりまずだらけてしまうというのが最近になってようやく分かってきたのです。

しかし、いつからでしょうか。私は自分の中で危機感を醸成できないからこそ、無意識の内にあえて危機感を煽られるような環境に身を置く決断をするようになっていました。

特に社会に出てからが顕著で、3年いると誓って新卒で入った会社を2年経たずに出てみたり、次に入った会社ですら1年と少しで飛び出しています。

中には無知が故そうなってしまったという類のものもあります。それが無意識の選択ならば私は自分の中で危機感を醸成できないからこそ、あえて危機感を煽られるような環境に身を置く決断をしてきたとみることもできます。

そしてその安全ではない状況の中で何かしら成長のヒントとなる気づきを得て、実際に成長できたと、そう断言できるのです。

宗教家・常岡一郎さんの『人間は何のために生まれてきたのか』という文章の中で、「人は多分、育つために生まれさせられたのだろう」というくだりが出てきます。

育つこと、すなわち成長が人生の意味であるならば、あえて現状に甘んじず「自分自身を試す」ことこそ育つための条件であり、生まれさせられた理由にあたるのかもしれません。

幸せは定義できる類のものではないですし、いわゆる人生におけるやりがいの形も人それぞれあるでしょう。

ただ私の場合は、性分として何だか分からないけれどわちゃわちゃしている、どうなるか分からないけれどやるっきゃない、その雰囲気が大好きなのです。

そこで少なくとも向こう数年は何かを決める際に「ぬるま湯を出る」ということを意識していきたいのです。