魚心あれば水心

人と人との関係において、互いに気心が知れて分かり合っていると思っていても、気づかない内にすれ違いが起こってしまうのは、それぞれが独立した個体である以上、仕方がない事なのでしょうか。

しかも、場合によっては「分かり合っていると思っている」こと自体が独りよがりのこともあります。
自然にコミュニケーションを取れていると思っていたら、実は相手に相当な負担を強いていた、意図通り伝わっていなかった。

双方が気づいていないのならばお互い様だが、片方が無理しているのはなんとアンフェアなんだろう、と超絶自己嫌悪に陥ります。

人がどう受け取るかなんて、受け取り手が決めることとはいえ、それが必要なコミュニケーションならば誤解させないことも自分の責任です。

となると相手側の受け取り方に歩み寄る技術が必要となりますが、自分が相手でない以上そこに不確実性、アンコントローラブルな状況が生まれ、時にはそれが苦悩となって現れることがあります。

相手の事情を想像するといったテクニックもありますが、それにしたって想像のみではあくまで机上の相手像であって、実際のところではない。最終的には対話が必要なんでしょう。

常識なんていうものは人によって違うため、互いに互いを尊重できるならばそれがベストです。が、仕事や特別な関係のように複数人で何かを成そうとした時にはそうもいかないケースが出てきます。

コミュニケーション、特に上辺ではない対話には勇気が要りますし、なんだかんだ人間も生き物ですので、体調の善し悪しや虫の居所というパラメータも関わってきます。性格の合う合わないも場合によってはあるでしょう。

親友、友人、上司、同僚、知人。言い方はバッサリですが所詮は赤の他人。あるいは親族や家族だって、それを維持しようとする気持ちがなければ、簡単に離れ離れになってしまう類のものだと確信しています。

一方で、袖触れ合うも他生の縁と言いますから、無数の中から得られた縁を一つ一つ尊いものとして大事にしていきたいのです。

魚心あれば水心、そのきっかけを作るのは自分自身でありたいものです。

……まあ、それが難しいんですけれどね。