その文章、ブログに書くか、Twitterに書くか

手軽にアウトプットする場として特に深く考えずにブログを利用していますが、気軽にアウトプットするのであればTwitterでいいんじゃないかな、とか思うことがありまして。

情報にあふれている今日日、技術など明確に調べごとをしてたどり着くものでない限りはあらゆる情報はフロー、流れていくわけです。

特に自分の場合は言葉が連続した文章ではなく、脈略のない単語や文単位で出てくることも多く、実際にこのポストも上から下に書くというよりは、思いついた文章群を散らかして後からまとめる、みたいな書き方をしています。

であれば出力の敷居をさらに低く、思いついた先から投稿するのであればTwitterで良さそうであります。文字制限こそありますが、連続ツイートみたいな形で長文を載せている方(↓みたいな感じ)もよく観測されますし大した問題ではなさそうです。

おそらく我々より若いと思われるのですが、そういった世代ではメモアプリなどに書いた長文のスクリーンショットを画像として投稿されているのもみられます。

また、インプレッションの時点で内容をみてもらえるので効率よく読んでもらえるという側面もありそうです。実際の露出数や反応数はGoogle Analyticsのように分析ダッシュボードでしかみられないはずなのでちょっと一手間かかりはしますが、みようと思えばみられます(まあ、リツイートとかいいねとかはすぐにわかりますよね)。

一方で自分としてはどんな文章であっても、それがTwitterであったとしても変な伝わり方をしないかチェックするのが癖になっているため、ツイートするのもブログを書くのも心理的な障壁はそこまで変わらなかったりします。

昔はもっとくだらないことを書いて(書けて)いた気がするのですが、歳を取った自分自身の変化なのか、ネット人口が増えた時代の変化なのかセンシティブになっているのは確かで、となればどこに書くかは媒体が云々というよりは自分自身のスタイルな気がしてきました。今では好みみたいなもので、境目はないんでしょうね、とか。

私の今のブログを書くモチベーションの大部分は社会とのつながり感で、読んで欲しい一方でめちゃくちゃ拡散されると、それはそれでこっぱずかしいみたいな感情が正直あります。実際には数えられるくらいのPV数なのに、何を気にしているんだろうという感じなのですがまあそういった心持ちなのです。

見てほしいけど、拡散したいわけでもない。ブログに書いて、ひっそりTwitter連携する今くらいがちょうどいいのかもしれませんね。

お盆休みの振り返り

ちょうど一週間ほど前に昨日までのまとまった休みの計画を立てていた*1

treby.hatenablog.com

続ける技術で言及されていた、が自分自身が弱い(サボってしまう)点としてメジャーメント、計測があるので記録として残してみたいと思う。

結果としては、企画やインプット周りについて実施できた一方、アウトプットは手が回らなかった。もちろん全く何もアウトプットしていないわけではないが、ものとしては仕込みのようなことにとどまっている。

今回私としては珍しい試みとして、時間の使い方の実績をそれなりに意識して把握する、ということを行った。生活に費やした部分、娯楽に費やした部分、列挙した作業に費やした部分、何に時間を使ったか、に関わらず、実際にかかった時間を大雑把であるが記録したのである。

そうすると気づきとして面白いのは、物事見積もりどおりに進まない、という既知の教訓を感覚だけでなく論理の上でも捉えられるようになった。

記録することで意識の上では些細なこと、例えば料理する時間であったり、テレビを見る時間だったり、睡眠時間であっても定量的に把握することができる。そして、それらの時間を休暇全体と照らし合わせると「何に時間がかかっているのか」が明確に見えるようになる。

これをやりたいことと合わせて、計画を立てていけば、より精度の高く、そして無理のない計画が立てられそうだと気づけたのが大きかった。

*1:まあ今から見ると計画というよりはToDo、やりたいことリストみたいになっている点はあるがそれはそれ。

お盆休みの計画

職場の制度上は7〜9月のどこかで一週間夏休みを取得するような仕組みになっていて、せっかくなので、ということで月曜日までの三連休はささやかながらも家の外の世界で心身ともにリフレッシュに活用した。

ところがその連休が過ぎても、夏休みという体でまだ多少まとまった休みの日数が残っていることに気がついた。個人的にこれまであまり有給休暇を活用してこなかったこともあって、不意に長い休みがくることに、すっかり油断していたのだ。

この期間をただ何もせずに過ごすのも乙ではあるが、せっかくリフレッシュして物事へのやる気が満ちているタイミングである。すでに一日が終わりそうではあるが多少なりとも何かやり遂げたいということで所信を書いておこうと思う。

企画ものは関係各所と内容を詰めたり、日程を調整したりというので時間がかかるところもあるので、まとまった時間を活用する点では一人で進められるところを注力することになりそう。

適応半年の法則

まあ単なる言葉遊びです。新しい環境に身を置いた時、端的にいえば転職した後に余所者感がなくなるまでの時間といえばいいでしょうか。振り返れば一人前に仕事ができるといって良くなるまでの期間は大体半年かなぁという感じがしています。「仕事ができる」というのはあくまで自分の実感ではあり外からの評価は分からないですけど。

そしてこの期間をすぎると、一定職場に適応でき、右も左も分からずもやもやしていた仕事が楽しくなってくる、あるいは当初浮かされていた熱病から解放されて、良くも悪くも地に足がつけて業務に取り組めるようになったという実感があります。

そうすると自分が担当していない業務に関しても「門前の小僧、習わぬ経を読む」といいますか、なんとなく語れるようになり、前職との文化的な違いについても「朱に交われば赤くなる」というか現状が普通になって違和感を持たなくなっていきます。

業種の違いによる企業文化の差分が大きかったことや急な完全在宅勤務への移行もあって少し半年より足が出ましたが、今回の転職においても、仕事の進め方というかコツを掴めた感覚があります。

順応には良し悪し両面ある*1かな、とは思いますが、自分の適性に合わせた環境を選び、その上で環境から影響を受け、また自分も環境に影響を与えるみたいな良いサイクルを作って行ければ、と思います。

*1:典型的には慣れて仕事がスムーズにいくようになったり自発的に動きやすくなったりするのが良い点、慣れてミスをしたり業務上改善できるところに気づけなくなったりするところ悪い点と思っています

健康的に引きこもるために

きのこるエフエムエピソード*1の編集作業をしていて、在宅生活中の運動や健康について話をしたことを思いだした。

元々運動をする方でもないのだが、申し訳程度にジムに行っていた。それが外出自粛や在宅勤務といった生活の変化ですっかりなくなってしまった他、普段の生活であっても室内で完結してしまうということで以前より圧倒的に体を動かさなくなった。

そして、数字とは残酷なものでその結果は体重の増加として確かに現れていた。

そりゃ動いていないのだから太るだろうということであるが、今の生活が続いていく以上は何かしらで手を打った方が良いのも確か。

ということで下記記事にも書いたように5月あたりから、リングフィットアドベンチャーを再開して自身の運動量の足しにしている。

lineblog.me

それにしても太る時は簡単に太るものである。体質的なものがあるにしても、痩せようとしてもなかなか痩せないくせに、と考えるとやり場のない怒りを覚える。

もっとも、太るといっても極端な増加ではなく、全く体を動かしていないことを踏まえれば想定の範囲内ではある。おそらくその時点での体にとっての摂取・排出のバランスがあって、それを超えていくためには習慣レベルで違う生活を続ける必要があるのだろう。

ある一定の体重から痩せようと思っても痩せられないのはその壁にぶつかっているということなのだが、まあ数字上の変化が見えなくなり、我慢する期間の長さや打つ手も分からなくなると運動を続ける辛さの方が上回ってしまうものである。幸いにも今のところはリングフィットアドベンチャーをなんとか続けられているが、放置しておくとまた同じようなことになりかねない。

「体重ではなく見た目の変化も記録すると効果的(by リングフィットアドベンチャー)」「結果でなく行動自体のKPIをおくのもよい(続ける技術)」とはいうが、記録を取ったり腰をすえて目標を立てたりするのを億劫に思う自分がいるのも確かである。痩せたい*2とはいうが、死に物狂いというわけではなく楽はしたいのだろう。難儀なものだ。

しばしば忘れがちだが記録することや言語化すること自体にも時間的精神的なコストがかかる。このあたりいい感じに気にせず効果を実感したいところである。

行動上のKPIはちゃんとおいた方が効果的だと反省したが、記録に関してはいわゆるフィットネストラッカーやネット接続できる体重計で代替できそうだ。記録をとることを面倒に思う、もしくはとる時間コストを仕組みで置き換えられるのであれば、積極的に行うべきなのだろう。

楽するための努力を惜しまない、とはこういうことをいうのかもしれない。とか、そんなことを考えた。

*1:実は7月半ばにサイレントで収録していた。近日公開予定。

*2:というより標準的な体型を維持したい意思が強い

サブコマンド(image, container)から深めるdockerコマンドへの理解

白状するとDockerに関して、打っているコマンドをよく理解しないまま使っていたんですね。

もちろん実務では使っていますし、何かあった時にも都度調べれば何とかなるという感じで「理解しない」のレベル感としては多分、「ぜんぜんわからない。俺たちは雰囲気でDockerを使っている」*1くらいのものだったかと思います。

そして、ローカル環境での開発に限れば幸いにもそれで何とかなっていました*2。ただそんな有様ですからうまくいかない時に都度本筋から離れて対応をググらなければならず、開発者体験の方のDXはよくはありませんでした。

詰まってしまう具体例としては、

  • コンテナ立ち上げるコマンドって docker run / docker exec どっちだったっけ? (docker-compose up とごっちゃになることもある)
  • 一覧出すのって docker ls だっけ? docker ps だっけ?
  • 諸々整理したいときは docker stopdocker rm ?んん、rm する前に止めろと言われとる。ん、rmi? ( docker-compose down とごっちゃになることもある)
  • --name でコンテナに名前をつけようとしたらすでに使われていると怒られた。docker ps だと出てこないのに。
  • とりあえず docker system prune しとこ

みたいな。改めて文字にするとひどいもんですが、ホントこんな感じ。

そんな中いつものようにググっていた時だったか、突き当たったのが↓のQiita記事でした。

qiita.com

Dockerの入門には慣れていた*3のでおさらい的な内容も多かったのですが、良かったのが記事の中で紹介されていたこちらの投稿です。

qiita.com

「おお、コマンド体系が新しくなってる(なってた)」と自分の中で発見がありました。そして新コマンド体系(2017年にはすでに使えていたのでそう新しくもないですが)では各コマンドがdockerの何に対する操作か明示されているではないですか。

以前のコマンド体系だと、イメージに対する操作もコンテナに対する操作もフラットになっていて、それが実務で出てくるやりたいこととコマンドの紐付けを妨げていたのだと思います。一方、今でも旧コマンド体系が使えるため、現場では特に意識しない限りは混在してしまいます。これが私にとっては罠でした。

振り返ってみれば、学習段階では概念としてのイメージ、コンテナと各コマンドの対応を意識していなかった、そしてその後はコマンド体系が新しくなったことをキャッチアップできていないことが自分にとっての大事なピースだったのですが分かってしまえば、コマンドへの理解が進んですっきりするものです。

今ならimage (からのDockerfile(build)), container (からのcommit), volume, networkとコマンドと対応させながら進め、Docker Composeと学んでいけばスムーズに理解が進むのではないでしょうか。

考えてみると私が開発でDockerを触り始めた2016年頃はまだDocker for Macが出る前で、それゆえMacで使うためにはDocker Machineのお世話にならなければなりませんでした。

Docker for Macが出てもこなれるまではdinghyを使っていたし、もちろん開発する上ではDocker Composeも使ってるわけで要するに一口にDockerといっても開発エコシステム全体がやたら複雑だったんですね。今から考えると当時は過渡期だったんでしょうね。

新しめの技術だと往々にしてこういったことがありますし、体系だった学習リソースに突き当たるのが難しかったり、もしくは存在しなかったりします。今回の気づきは今後新しい技術を私の中でモノにするための参考になりそうだと思った次第です。

*1:元ネタ: 【株の知識ゼロ】バカが考えた株の漫画|俺たち株の初心者

*2:逆に何とかなってしまうから、これまで本腰入れなかったのでしょうけどね。

*3:「開発でDockerを使う」となった時にお勉強として入門系の書籍は読んだ他、ものにしようとちょこちょこ入門系の記事も読んでたのです。

ペーパーマリオ オリガミキング

四連休中、まとまった時間があったのでペーパーマリオをプレイしていた。

ペーパーマリオ オリガミキング|オンラインコード版

ペーパーマリオ オリガミキング|オンラインコード版

  • 発売日: 2020/07/16
  • メディア: Software Download

意識はしていなかったが、そこそこマリオのRPGゲームをプレイしている気がする。ゲームキューブ、Wii、とプレイしていないハードも多いのだが、特に初期のもの、スーパーマリオRPG、マリオストーリーは遊んでいた記憶がある。

どちらのソフトも当時は所有していなかったはずなのだが、それなりにやり込んだ記憶がある。多分、友達から借りてきてやってたのだろう。考えてみれば当時私は小中学生だ、記憶も曖昧になるものである。

なお、マリオRPGに関してはミニスーパーファミコンに収録されていたものを最近プレイした。懐かしさを覚えつつも昨今のゲームに比べるとあっさりしたものだとも感じ、思い出補正の大きさを知ったものだが、これは余談。

そんな懐かしさはさておき、一通りプレイしたので感想を書いてみる。

レベルの概念がない

RPGスタイルの割りにレベル(育成)の概念をとっぱらってあるのが、考えてみれば新鮮である。

マリオの強さは、使うぶき(デフォルトのもの以外は消耗品で何回か使うと壊れる)とHPの最大値(これが上がると攻撃力も底上げされる)で決定されるため、地道にザコ敵を倒してレベル上げしなくてもさくさくとストーリーを進めていくことができる。

ただし、敵キャラとの時にパズル要素があり、エンカウント一回あたりのテンポはゆっくり目である。そんなバトルシステムを前面に押し出すためにレベルの概念をなくしているのかもしれない。

あとは細かくはネタバレになりそうなため割愛するが、登場する仲間のマリオとの関わり方のストーリー優先な性質も関連しているかもしれない。もっとも、バトル時の仲間の存在はおまけのようなもので基本マリオ一人でがんばる形になっている。

誰でもやれば遊び尽くせる

ゲーム中には操作にコツがいるところが何箇所か出てくる。それでも、ちゃんとクリアできるように救いの手を差し伸べてくれるのが最近のマリオっぽい。ちょっと難易度下げてくれたり、本来ゲームオーバー時にセーブポイントまで戻されるのが特別に、みたいなことをしてくれたり。

ハテナブロックやキノピオ集めのようなコンプ要素についても、ゲーム中にヒントを差し伸べるような装備が用意されているため、ネットで調べなくてもプレイヤーが主体的に探せるような工夫がなされていた。

ゲームシステムとしてプレイヤーが自発的にコンプまで持っていけるように作られているので、誰でも遊び尽くせるという点で満足度は高い。反面、やり込み要素は腕試し、と捉えていると少し物足りないところはあるかもしれない。