思考の迷路の抜け出し方

天気が良ければ一日一回外に出るようにしています。人間とはいえ動物、陽の光を浴びないと気分が落ち込んでしまうものだから。特に普段デスクワークをしておりますと、ついつい忘れてしまいがちです。

同様の理由で運動することについても、意識的に行うようにしています。これらは精力的に日々を過ごす十分条件ではないようだけど、やって損はないのかなと考えています。

自由であることは難しいことだ、とつくづく感じる今日このごろです。なんせ答えを自分で見つけ出さなければならないのですから。

無意識意識的問わず、評価されることで行動を起こしてきた人間にとって、自由は手にあまるのかもしれません。こうすれば嫌われない、こうすればよく思ってもらえるなんて常によそに基準を求めてしまう。

とはいえ「ならば」と一念発起して動こうとすると、必ず突き当たるのが、では自分は何がしたいんだっけ?という命題。嘘偽りなく簡潔に、この問いに答えることができるのでしょうか。

そんなことを考えていると気づけば思考の迷路にはまり込んだりして。一度悩みに意識を絡め取られると、すっきりしない気分のまま毎日を過ごしていくことになる。

私個人の経験としては、ここ最近は特にそういうことが多かったな、という印象で、じゃあ悩みの因数分解のようなテクニックもある中でどうしてそうなってしまうのかを考えてみました。

自分なりに考えた答えでは一つ一つが不完全燃焼だから、なんですよね。何か物事に対して十分に考えこめる時間が取れない、整理する時間が取れない、だから意識をはがせない。

そもそもが考えすぎだ、という指摘はもっともで、本来気にしなくても良いところまで気にしてしまうきらいは確かにあります。

そういう性質だから心配事が次から次へと現れて、考えるだけ考えて、もうそもそもが何に悩んでたのかわからなくなってもモヤモヤだけが残ってしまう。モヤモヤした状態だと本来の能力も発揮できない、それが新たな悩みの種になる。おおよそそんなロジックです。

あくまで私の場合ですが、最近では般若心経の現代語訳が気持ちを楽にしてくれました。そういえば、過去には近所の教会の日曜礼拝に参加するというのも有効でした。

これらに共通することは、自らに求めず、また自らを受容するという姿勢です。性質が考え過ぎならば、意識的に考えないようにする。

何か閉塞を感じたら、第三の視点をもって自らを省みるのも良い手なのかもしれません。