どれだけ自分に厳しくできるか

基本的に私は怠惰な性格で、束縛を嫌うくせに束縛がないとどこまでも堕ちていくような、そんな人間です。

自堕落な生活でいうとティーン・エイジャーの頃、冬休みでしたでしょうか朝起きてからパワプロ9のサクセス(野球ゲーム)をしていたり、もう少し学年が上がり留年が決まり不登校をしていた頃に朝から晩までSpecial Force(ネットのFPS)をやっていたり、もろに『ネトゲ廃人シュプレヒコール』の世界観でした。

個人的に多忙の中の清涼剤として取り入れる分には、フリーダムな一日も精神安定上良い気がするのですが、それにしたって長期に続けていくものではありません。そのことを直感として分かっているのでしょう、不思議なもので非生産的な暮らしを続けると何かをしなくてはという不安とも焦りともいえる感情が湧いてきます。

社会に出てからは流石に長期間何もしないということもできなくなりましたが、逆に多忙を極めすぎてまともな思考ができなくなることがあります。

元々は自分で決めた道のはずなのに、そこを突き進めば突き進むほど、道のつらさの部分だけが際立って見えるようになり、気づけば自信がなくなり、その顔面からは覇気がなくなってしまいます。

沈んだ表情や「疲れた」とか「つらい」という言葉も、無意識に出てしまうことがそのまま自分の身体から意識に向けた警鐘です。

ただ外から見えてしまうことはそのまま周りにも伝わってしまうことなので、ネガティブな発信をしてしまうという側面ではあまり褒められたものではありません。

警鐘に気づいてしまったならば取れる行動は二つに一つ、そこで休むか更に限界を攻めるかです。そして限界を攻める場合はぐっと抑え込むべきなのでしょう。

速度と品質、熟考と即決、開発と保守、トレードオフにあるものを全取りしようとするスタートアップは元から無茶苦茶です。無茶苦茶ですが、そこにベットしたならば走るしかないし弱音は見せてはいけないのです。厳しいことを言われても、また言わなくてはならなくなっても乗り越えなければならないのです。

つべこべ余計なことを考えずによそ見、脇道を自制できるだけの厳しさを持てるか。限界を攻めることができるのか。これは言葉にする以上に実践が難しいことで、どうしたって迷いは生まれるし、それでタイムロスをしていることも少なくないでしょう。

大元にあるのは価値提供であって、チームとしてはそこだけをみなくてはいけない。じゃあ自分としてはなんでチームと同じコトに向かって走っているんだろうと。

とにかく、揺れやすい自分なりの軸を持たねば、と強く思います。